C O N T E N T S

 法医学から見た脳死

 脳死とはなにか
 ・脳死の定義、細胞死との関係
 ・脳の特徴
 ・脳の構造と脳死
 ・脳と酸素欠乏
 ・脳死の脳の状態
 脳死は人の死か
 ・代替できない脳の機能
 ・脳死についての一般の不安
 脳死を人の死として認めることに伴う問題点
 ・脳死の診断と死亡時刻の決定
 ・1回目と2回目の判定の間
 ・診断基準、除外例などの問題点
 ・社会的コンセンサス
 ・脳死後の「治療行為」


法医学から見た脳死
大阪大学医学部法医学教室教授
日本法医学会評議員
若杉 長英


■脳死とは何か

脳死の定義、細胞死との関係

 脳死の定義には「全脳機能の不可逆的停止」と「脳幹機能の不可逆的停止」とがあり、日本では「全脳機能の不可逆的停止」を採用している。また、多くの国が「全脳機能の不可逆的停止」を採用している。
 脳死の状態が維持されるのは、人工呼吸器を使用している場合のみである。たとえば首を吊ると脳が先に機能停止になった後で心臓が止まることから、脳死であるといういい方をする人もいる。しかし、それは特殊な例であり、臨床的に脳死が生じるのは、人工呼吸器を使用する場合だけである。
 脳死を「全脳機能の不可逆的停止」というが、脳死の場合の「機能の停止」とは、血行の停止による脳細胞の不可逆的な死を意味する。全部の脳細胞が死んでいるかどうかは分からないが、多くの細胞は死んでいる。したがって、壊死、あるいは器質死といわれるものを、機能で調べているのである。
 それに対して、手足などについての機能の停止、あるいは機能の廃絶とは、神経の麻痺や関節の拘縮による運動不能の状態をいい、細胞自身は生きている。したがって、脳死でいう「機能の停止」と、手足などでいう「機能の停止」は、まったく異なっている。「手足の機能が停止しても、手足が『死んだ』とはいわないのに、脳の機能が停止するとなぜ『死んだ』というのか」という議論があるが、根本的に意味が違っている。

脳の特徴

 脳死を説明するためには、まず脳の特徴を知る必要がある。1.脳は頭蓋骨という限定された器の中にある。2.一次的な酸素欠乏で脳は非常に腫れやすい。3.脳が腫れたり、頭蓋内に出血があると、頭蓋内の容量が増える。すると血管を圧迫し、血行の停止を招く。4.どんな細胞でも血行の停止が起こると死ぬが、脳細胞は特に酸素の欠乏に弱い。5.脳細胞は再生しない。

脳の構造と脳死

 脳は頭蓋骨の中に剥き出しで入っているわけではなく、硬膜という硬い膜に包まれている。したがって脳が腫れても、頭蓋骨とその内側の硬膜があるため、それ以上大きくなることはできない。
 脳には大脳があり、小脳があり、脳幹があり、延髄から脊髄へつながっている。頭蓋骨の中で唯一の大きな孔は脊髄につながる孔である。したがって、頭蓋内の容積が増えると他に逃げ道がないので、この孔に向かって脳は押しつけられていく。
 写真1は脳を取り出して、頭蓋底を見た写真である。脊髄に抜ける孔が、頭蓋骨の中の唯一の大きな孔であることが分かる。

 脳へ入る血管のうち、総頸動脈から分かれた内頸動脈は頭蓋底の小さな孔を通って頭蓋内へ入ってくる。また椎骨動脈は、延髄から脊髄へ出ていく孔から脳へ入ってきている。この2組の血管(左右にあるので4本)が、脳への血液を供給している。
 頭蓋内容量が大きくなると、これらの血管が圧迫されて脳への血行が停止する。したがって治療に当たっては、頭蓋内の血腫は早く取り除き、脳の腫脹は早く抑え、血管の圧迫を防がなければならない。

脳と酸素欠乏

 脳の細胞はどのくらい酸素欠乏に弱いか。呼吸停止後、各臓器・組織が壊死に至るまでの時間を比較すると、大脳の表面にある大脳皮質は、わずか5分の呼吸停止で細胞が死んでしまう。大脳皮質は心臓から最も遠い部分であり、血圧が下がるとこの部分の血流量が不足してくる。延髄では20分以上細胞が生きることができ、心筋もほぼ同様である。細胞によっては何時間も生きているものもあり、脳の細胞が非常に酸素の欠乏に弱いことが分かる(図1)。

脳死の脳の状

 脳死になった脳が、どのような状態になるか。まず比較のため、脳死でない脳を見る。
 写真2は脳死を経過せずに心停止し、心停止後10時間程度で解剖した例である。脳を取り出して、真上から見た状態であるが、真ん中の境目が狭く寄っていて、しっかりとした状態である。

 

写真3はこの脳をフォルマリンで固定して、顔に平行な面(前額断面)で切った状態である。周辺部の、色が濃く縁取りのようになっている部分は灰白質(皮質)で、ここに神経細胞が集まっている。灰白質とその内側の白質の境界は極めて明瞭である。灰白質の状態も均質化されてきれいな状態で、脳の形もきちんと保たれ、崩れた状態はまったくない。

 写真4は脳死の脳の例である。脳死と診断されてから約20日間心臓が動いていた例である。心停止後2時間で解剖したものである。

 脳を取り出して上から見ると、真ん中の線が開いてしまっている。脳の山になっているところを脳回、山と山の間を脳溝というが、脳が腫れているので頭蓋骨の内面で圧迫され、脳回が山の状態にならず平らになってしまっている。
 脳は、普通は木綿豆腐かそれ以上の硬さがあるが、脳が融けた状態になると絹ごし豆腐以下の軟らかさになっている。軟らかいので、取り出して台の上に置くとダラッと広がってしまう。赤血球が壊れ、ヘモグロビンという色素が浸潤して色がついている。
 この脳をフォルマリンで固定して切ると、崩れていて正常な構造をしていない(写真5)。

ざらざらした感じがするのは、崩壊してきているためである。
 写真6は脳死の脳の別の例で、融解がさらに進行したものである。フォルマリンで固定しようと取り出したが、柔らかすぎてこのような状態になってしまった。

脳死の考え方として、竹内基準の報告書には「ひとたび脳死に陥れば、いかに他臓器への保護手段をとろうとしても心停止に至り、決して回復することはない」と書いてあるが、むしろ「ひとたび脳死に陥れば、いかなる手段によっても脳機能は回復しないばかりか、やがて脳は融解する」としたほうが分かりやすい。竹内基準が出た当時は、心停止に至る期間が1週間とか10日であったのが、現在では100日を超える例もある。「心停止に至るから人の死と考えてよい」と受け取られるような表現は不適当である。

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■脳死は人の死か


代替できない脳の機能

 人工呼吸器を用いた場合に生じる脳死は、厳然とした医学的事実であり、これを認めようとしないのは医学的に間違っている。それを「人の死」としてよいかどうかというのが、次の問題である。
 私はしばしば、一般の人を相手に脳死について講演しているが、大抵の人は融解した脳の写真を見ると、「あそこまでになって生きているとは思いたくない」という。写真を見せれば、脳死を人の死と思っていなかったほとんどの人の意見は変わる。それまで脳死というものを理解していなかったわけである。医師の中にも、脳死の脳、融解した脳を実際に見ていない人はたくさんいる。
 では、なぜそれが人の死か。脳死臨調の答申には次のように書かれている。
「身体の基本的な構成要素である各臓器・器官が相互依存性を保ちながら、それぞれ精神的・肉体的活動や体内環境の維持(ホメオスタシス)等のために合理的かつ合目的的に機能を分担し、全体として有機的統合性を保っている状態を『人の生』とし、こうした統合性が失われた状態をもって死とする。」
 有機的統合性が何をさすかというというのは非常に難しい問題で、この定義には私は賛成しない。とはいえ、私も適切に表現することはできないが、次のような点を理由として、私は脳死をもって人の死とせざるを得ないと考えている。
 (1)脳機能は機械で代替できない。(2)脳以外の手、足、心臓、腎臓などはいずれも機械に置き換えても生きているといえるが、脳だけは機械が代替することはできない。(3)もし脳を機械で代替できたとしても、それは人間ではなくロボットというべきである。(4)全脳の移植が可能になったとしても、通常は臓器を移植された人が生きていると考えるが、脳の場合は移植された人が生きているとは感覚的に考えられない。(5)もし埋め込み型の人工心臓が半永久的に使用できるようになったとき、脳死を死と認めなかったら、その人は死ぬことはできない。白骨になっても心臓だけが動いているという恐ろしい事態が起こってしまう。
 したがって医学の進歩と共に、死の診断基準は変更せざるを得ない。

脳死についての一般の不安

 一般の人に脳死の話をすると、脳死があること、脳死が人の死であるということは理解してもらえることが多い。しかし、それでも不安を感じたり、混乱したりする点があるようである。
 第1に、移植のための臓器が欲しいばかりに、脳死ではないのに手抜き医療をされて脳死にされないかと懸念する人がいる。しかし、脳死に至るような患者を管理しているのは救急医であり、彼らは患者の救命に全力を尽くしている。不幸にして脳死に陥った場合、脳死判定を行うわけであるが、この過程に移植医はいっさい関与できないシステムになっている。したがって、臓器欲しさのために手を抜いて脳死にするということはあり得ない。この点がなかなか理解されていないようである。
 また脳死を診断されると、主治医(救急医)から臓器提供を強要されないかという不安を持つ人もいる。決してそのような事態は起こらないことを認識してもらう必要がある。その意味でも、今後、移植コーディネーターの役割が非常に重要になってくる。
 救急医学会で定めている手続きによれば、救急施設で脳死者が発生した場合、主治医(救急医)が脳死判定を行い、家族に脳死を告知した後、臓器提供の機会もあることを告げ、家族が提供について説明を聞くことに同意した場合に限り、移植コーディネーターを紹介することになっている。移植コーディネーターは移植医とは別の独立した立場で、臓器提供について説明をし、承諾が得られれば提供の手続きを進める。したがって、主治医から直接臓器提供を強要されたり、断り切れないという事態は起こり得ない。
 次に、脳死の診断基準が正しいかという問題がある。全国に80の医科大学ないし大学医学部があるが、そのうち30以上の大学が、脳死の診断基準を独自に作っている。竹内基準は正しいといいながら、ABRなどの検査を付け加えたり、1回目と2回目の判定の間隔(6時間)を、24時間や48時間に延長している。
 これでは一般の人は、診断基準が施設により異なると思って混乱する可能性がある。臨床の医師は基本的に違っていないというが、そうであれば変える必要はない。もし変えるのなら、「竹内基準のどの点が不都合であるから直さなければいけない」と、コメントを付けるべきである。
 世界的に見て、基準は基本的には全く同じである。世界で最初に心臓移植がされた翌年に、初めて脳死の診断基準が出ているが、それ以来、基本的には変わっていない。
 ただし、医学の進歩によって、よりよい方法が開発されたとか、新しい診断基準ができたときは、できるだけ早い段階で取り入れる必要がある。そうしたときに、どのように対処するかというルールも、医学界として考えなければならない。

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■脳死を人の死として認めることに伴う問題点


脳死の診断と死亡時刻の決定

 治療を行う過程で、医師はさまざまな方法で容態の観察を試みるが、やがてあらゆる脳機能がないことが分かり、治療が断念されるときがくる。主治医、あるいはそのグループが脳死を確信するときである。そして次に脳死を確認する目的で検査が行われる。
 この過程で、死亡時刻をどの時点にするかという問題が重要になってくる。第1回の脳死判定の時刻か、第2回の脳死判定時刻か、心停止の時刻か、治療が断念された時刻か、という4つの選択肢がある。
 一般に医療は、主治医、または主治医を中心とするグループが診断し、何の検査を行うかを決めるのであるから、私は本来、死亡時刻は主治医が治療を断念した時刻であるべきだと思う。あるいは、治療が断念された時点と、第1回の脳死判定とがスムーズにつながっている場合は、第1回の脳死判定時刻を死亡時刻としてもよいと思う。
 しかし、先般出された「脳死者の死亡時刻に関するワーキンググループ」の結論では、「脳死者の死亡時刻は、脳死判定の『観察時間経過後の不可逆性確認時』とすることが適切である」とされた。その医学的理由としては、「1. 脳死発生時点を臨床的に判断することは現在のところ不可能である」、「2. したがって、臨床的な脳死の判定は不可逆性を確認した時点とするのが妥当である」となっている。
 しかし、「3. 死亡時刻の決定には生物学的立脚点に加えて、死亡時刻の社会的、法的な意義についても考える必要がある。特に脳死を人の死とすることに対する国民感情をも配慮していくことが重要である」とあるが、医学的な死亡時刻の決定について、国民感情に配慮するというのはおかしい。
 これは、「4. 実際に臨床医が遺族に脳死を宣告するのは『確認時』であり、それ以前を死亡時刻とすることは遺族にとって理解しにくく、感情的にも受け入れ難いおそれがある」ことを前提にしているからであって、主治医が脳死を確認して治療を断念した時点で脳死を宣言すれば、その問題はなくなる。
 したがって、脳死の死亡時刻を決定するには、「医学的に、本当はどこにするのが正しいのか」という問題と、「社会としては、どこにしてほしいのか」というふたつの問題があるわけである。私は最終的にワーキンググループの結論に同意したが、それは、死亡診断書の備考欄に1回目の脳死判定時刻を記載することになったため、最初の診断時刻が明らかなら、法律の適用にさしつかえないと考えたからである。

1回目と2回目の判定の間

 1回目の判定をしてから2回目の判定をするまでの間に、医療機関のミスや停電などで人工呼吸器が止まったときに、脳死診断が確定していないからといって、医療機関は患者を生きている人とみなして補償を行うかどうか。あるいは、1回目と2回目の判定の間に、病院が火事になって患者が「焼死」したら、病院は補償をするのか。
 たとえば1回目と2回目の間に、患者が殺されるという事態が起きたとき、これが殺人罪になるのか。こうした問題が起きたときに、1回目と2回目の判定時刻を明らかにしておけば、裁判の際に役立ち、解剖結果を参考に1回目の判定時刻を死亡時刻とするということになるかもしれない。

診断基準、除外例などの問題点

 無呼吸テストをすると血圧が下がって、基準に従った無呼吸テストができないという状態がある。その場合は脳死の診断ができなくなる。こういう場合、無呼吸テストができないから脳死の診断ができないとするのではなく、無呼吸テストができないときは、どのような要件を満たせば脳死と診断してよいかという基準が必要になってくる。また、目に障害があって対光反射のテストができないという場合もあり得る。この場合の脳死判定も、どう対応するか考えておくべきである。
 脳浮腫を抑えるためにバルビタール療法を行うが、薬物中毒は脳死判定の除外例にあたっている。それではバルビタール療法をしていると、いつまでたっても脳死の判定ができないかというと、そうではない。ある時期になると中止し、脳死の診断は行われている。したがって、いつ中止するかとか、バルビタール療法をしている人の脳死の診断は、どのようにするのかということについても考えておくべきである。

社会的コンセンサス

 臓器移植との関係で脳死問題が非常にクローズアップされているが、本来脳死の診断は、臓器移植とは無関係に行われなければならない。脳死であると説明しても、家族が強く希望すれば治療行為を続けることになる。しかし、治療行為を続けても、脳死の診断が覆えされることがないという結果が積み重なって初めて、「脳死は死である」という認識が社会全体に行き渡っていく。
 私が30年前に法医学の世界に入ったころは、異状死体であるから解剖するというと、何十人という人に囲まれて反対されたこともある。現在では、年間何百という死体を検案しているが、強硬に解剖を反対される例は1例もない。異状死体に対し監察医が解剖するといえば、解剖しなければ後の処理ができないということが認識されてきたからである。このようにして社会的コンセンサスを得てきたのである。

脳死後の「治療行為」

 脳死であっても、医師がそれを診断しないという問題がある。診断しなければいつまでも治療行為を続けることができる。脳死は必ず診断するということを明確にしておかないと、診断しないで医療費を稼ぐということも行われる可能性がある。
 また、脳死以後も家族の希望によって治療行為を続けるという場合がある。本来、脳死を死とするのであれば、脳死の診断後は当然治療行為をやめなければならない。しかし社会的コンセンサスが得られるまでは、家族の希望によって治療行為を続けざるを得ないという時期が続く。その場合、治療行為は続けても、2回目の判定時を死亡時刻として動かせないようにしておかないと、財産の処理などに絡んで問題が起こる可能性がある。
 脳死を人の死と認めるなら、脳死体はすでに死体である。しかし、家族が脳死を認めず治療行為を続けるというとき、看護婦が「私は死体の看護はしません」といったとすれば、これは果たして法的に業務を放棄したことになるのかどうか。あるいは、死体に対する治療行為であれば、医師以外の者が脳死の維持を行ったとしても、医師法違反にはならない。
 交通事故などの賠償の場合も、2回目の脳死判定までは医療費を支払っても、その先、心停止まで治療行為を維持した場合、家族の要望によって行われる死体に対する医療行為まで、賠償を支払わなければならないのかという問題が起こってくる可能性もある。
 妊娠末期の妊婦が脳死になった場合はどうか。妊婦の場合は脳死の診断をしないという基準を作っている国もある。胎児を出してから脳死の診断をするという形になるが、医師が家族に対して、産むように説得することが良いかどうか。あるいは母親が意識のある間に、胎児と一緒に死なせてくれといっていたとすれば、その意思を尊重するのかどうか。こうした問題も含めて、検討しておかなければならない。
 今後、脳死を人の死と認めても、いろいろな問題が起こってくる。医師の側も、一般市民の側もこうした問題点を理解し、対応を考えておくべきであろう。

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